呼ぶ人、開く本によって名前が変わる――アーモンドクリームをめぐる静かな謎。
フランジパーヌとの違いから読み解く、呼び名をめぐる物語
クレーム・ダマンドとは何か、と聞かれれば、多くの人はまずこう答えるでしょう。「アーモンドクリームのことでしょう」と。そして少し詳しい人なら、こう付け加えるかもしれません。「フランジパーヌは、それにクレーム・パティシエール(カスタードクリーム)を合わせたものです」と。
よく語られる整理
日本語で「フランジパーヌとは」を調べると、たいていこの説明にたどり着きます。ダマンドが基本、フランジパーヌはその応用形――整理としては、たしかに分かりやすいものです。
実は、答えは「任意」だった
けれども、フランスの原書を何冊も開いていくと、この整理は少し違って見えてきます。
結論から言うと、パティシエールを合わせるかどうかは、呼び名を分けるルールではありません。サン=ジェルマン=デ=プレの名店主ジェラール・ミュロは、自著の中でこう明言しています。「クレーム・ダマンドにパティシエールを合わせるかどうかは任意。ただし加えたほうが、焼き上がりがしっとりする」と。
名前の違いではなく、菓子ごとの食感を左右する、技法上の選択だったのです。
当店の定義
当店のアーモンドクリームは、クレーム・パティシエールを合わせた、いわゆるフランジパーヌです。呼び名の実態に照らせば、「クレーム・ダマンド」と呼んでも誤りではありません。パティシエールを合わせるのは、水分を含ませてしっとりとさせるため――ジェラール・ミュロの言う、まさにその理由からです。
配合はガストン・ルノートルの流れを汲み、仕上げにはラム(仏領マルティニーク島ディロン蒸溜所のVSOP)を効かせています。使用するアーモンドには、カリフォルニア産のフリッツ種を指定しています。その香りへのこだわりは、後述の「材料辞典」でご紹介します。
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なぜ、ここまで名前が揺れるのか ― 書物を1冊ずつひらく
ここから先は、当店が実際に参照した書物を1冊ずつ開きながら、この「揺れ」の実像をたどる、少し長い余談です。呼び名の問題を、もう少し先まで覗いてみたい方に。
教科書どおりの例 ― ストーレー
パリ最古の菓子店ストーレーの教本には、たしかに「よく語られる整理」どおりのページがあります。ガレット・デ・ロワには「クレーム・フランジパーヌ」(パティシエール入り)、洋梨のタルト・ブルダルーには「クレーム・ダマンド」(パティシエールなし)。同じ本の中で、名前と中身がきれいに対応しているのです。
名前は同じ、中身は真逆 ― デュカスの大著
ところが、アラン・デュカスの大著では様子が違います。ある小菓子には「クレーム・ダマンド」の名でパティシエールを一切使わず、別のデザートには、まったく同じ「クレーム・ダマンド」という名前で、パティシエールを全体の半量近くも加えています。同じ本、同じ名前なのに、中身は正反対なのです。
名前ごと逆転する例 ― フェルデール
クリストフ・フェルデール(元クリヨンのシェフパティシエ)の家庭向けの一冊にいたっては、パティシエールなしの純粋なアーモンドクリームを「クレーム・フランジパーヌ」と呼んでいます。日本語で語られる図式とは、名前そのものが逆転しているのです。
事典の著者は、実はピエール・エルメだった
フランスの菓子事典『Larousse des desserts』の見出しは「Crème frangipane」。副題には「crème à l’amande」と括弧書きで、まるで同じもののように併記されています。事典というと無色な響きがありますが、実はこの本の著者は、製菓界の巨匠ピエール・エルメその人です。
ルノートル、そして師弟の符合
ガストン・ルノートルの名著『Faites votre pâtisserie』には、こう定義されています。「アーモンドとクレーム・パティシエールの、幸福な結婚」。パティシエールを合わせていながら、名前は最後まで「ダマンド」のままです。
ここに、一つ興味深い符合があります。ピエール・エルメは14歳のときからパリに出て、6年間ガストン・ルノートル本人のもとで修業を積んでいます。実際、『Larousse des desserts』の巻頭には、エルメ自身によるこんな献辞が記されています。「ガストン・ルノートルへ――私の師であり、友であり続けた人に(qui fut mon maître et qui est resté mon ami)」。日本人シェフの寺井則彦氏(現「エーグルドゥース」オーナーシェフ)も、1984年から5年間「ルノートル」に勤務し、フランス菓子の基礎を身につけました。ただし経歴文からは、フランス本国での修業か日本法人での勤務かは判然とせず、エルメのようにガストン・ルノートル本人に直接師事したとまでは言い切れません。それでも寺井氏は自著で、パティシエールを合わせたクリームを「フランジパーヌ」の名で紹介しています。
ルノートルという名のもとで学んだ書き手には、パティシエールを合わせる作り方が見られる傾向がある――ただし、これも絶対のルールではありません。当のルノートル本人は、終始「ダマンド」の名を保持しているのですから。
フレデリック・アントン(プレ・カトラン シェフ)とクリステル・ブリュアのタルト専門書『Tartes』も、同じく「クレーム・ダマンド」の名でパティシエールを加えています。アントンはルノートルに個人的に師事したわけではなく、1997年にルノートル社系列のプレ・カトラン厨房を任された、という組織的なつながりです。個人の師弟関係を超えて、ルノートルという名のもとに集った料理人たちのあいだに、この呼び方の感覚が共有されているのかもしれません。
パリの解説サイト「Chef Simon」がクレーム・ダマンドの項目にわざわざ「フランジパーヌと混同しないように」と注意書きを添えているのも、この揺れが今なお現場で生きている証といえるでしょう。
独立系の作り手たちの声 ― フェルベールとクルーガー
ルノートルとは無縁の独立系の作り手たちは、また違う顔を見せます。「ジャムの妖精」ことクリスティーヌ・フェルベール(アルザス)も、元弁護士から転身したカトリーヌ・クルーガー(パリのタルト専門店)も、著書の「クレーム・ダマンド」にパティシエールを合わせていません。ルノートルの流儀は、あくまで一つの選択肢にすぎないのです。
名前の起源をさかのぼると
さかのぼれば、この語の起源はさらに気まぐれです。「フランジパーヌ」はもともと17世紀、貴族フランジパーニ家にちなむ香水の名として流行し、菓子の意味で使われ始めたのは1732年ごろとされています。1651年にラ・ヴァレンヌが記録した最初の「franchipane」入りタルトは、実はアーモンドではなくピスタチオが主役だったといいます。名前と中身は、生まれたときからすでにずれていたのです。
なお日本語圏では、フランジパーヌの由来として「チェザーレ・フランジパーニ」なる人物名がしばしば語られますが、フランス語資料はこれを19世紀の創作とみなしています。名前をめぐる物語は、生まれてから現在まで、ずっと揺れ続けているのかもしれません。
歴史 L'Histoire
誕生の経緯
1651年、フランソワ・ピエール・ド・ラ・ヴァレンヌが「franchipane」入りタルトを記録しています。当初はアーモンドではなくピスタチオが主役だったとされています。
名前の由来
17世紀、貴族フランジパーニ家にちなむ香水の名として流行しました。菓子の意味での使用は1732年ごろからとされています。※日本語圏で流布する「チェザーレ・フランジパーニ」なる人物由来説は、フランス語資料では19世紀の創作とされています。
文化的・社会的背景
店主所蔵の11冊を比較した結果、パティシエールを合わせるかどうかは名付けのルールではなく技法上の選択と判明(ジェラール・ミュロが自著で明言)。ガストン・ルノートル本人に直接師事したピエール・エルメには、パティシエールを合わせ「フランジパーヌ」と呼ぶ傾向がある。寺井則彦も「ルノートル」に5年間勤務しパティシエールを合わせる作り方を紹介しているが、経歴文からはフランス本国か日本法人かが判然とせず、エルメと同様の直接師事とまでは言い切れない。いずれにせよ絶対のルールではない(ルノートル本人は終始「ダマンド」の名を保持)。
関連するシェフ・人物
François Pierre de La Varenne(初出記録)、Gaston Lenôtre、Pierre Hermé(14歳よりガストン・ルノートル本人に6年間師事)、Frédéric Anton(1997年よりルノートル系列プレ・カトラン主任)、Christelle Brua、寺井則彦(1984〜89年「ルノートル」勤務)、Christophe Felder、Camille Lesecq、Gérard Mulot、Jeffrey Cagnes、Frédéric Robert、Christine Ferber、Catherine Kluger
材料事典 Dictionnaire des Ingrédients
産地・原産地
カリフォルニア(アーモンド)
種類・グレード
フリッツ種(Fritz)を指定して仕入れています。マルコナ種やノンパレル種と比べ、香りの立ち方が異なります。
製法上の役割
クレーム・パティシエールを合わせることで水分が増し、しっとりとした食感になります。
推奨ブランド・銘柄
当店がフリッツ種を選んでいる理由は、まさにこの点にあります。アーモンド特有の香り(いわゆる"ビター香"=味の苦みではなく、マジパンやアーモンドエッセンスに感じる青みがかった強い香り。主にベンズアルデヒドという香気成分によるもの)を、エッセンスではなく素材そのもので出すことを狙っているのです。フランスの伝統的なフランジパーヌ/ダマンドのレシピでは、この香りを苦扁桃(アマンド・アメール)エッセンスを一滴加えて補うのが定番の技法ですが、当店では苦扁桃エッセンスは使用していません。エッセンスに頼らず、香りの強い品種を選ぶことで同じ役割を果たしている、という位置づけです。※あくまで当店シェフの感じ方としての記述です(海外の生産者資料では「苦味が少なく甘い」という味の評価がされることもありますが、これは香りの強さとは別軸のため矛盾しません)。
参考文献
- Pâtisserie
- Larousse des desserts
- Faites votre pâtisserie
- Tartes
- Mes tartes sucrées et salées
- Atelier Tartes : salé + sucré
- Grand Livre de Cuisine d'Alain Ducasse : Desserts et Pâtisserie
- Ma Petite Pâtisserie
- Gérard Mulot, pâtissier à Saint-Germain-des-Prés
- Le Livre de Pâtisserie Stohrer
- エーグルドゥース 味の美学
最終更新:


